2012.03.

「崩す」


 「こどもの広場」には小さな遊びコーナーがある。
たいていのこどもは、始めは本棚ではなく、そこに惹きつけられる。
それでいい。この場所面白い!と感じてもらうことが最初。
先日もそこで遊んでいた5歳の女の子、緑色の積み木だけで塔を完成させた。
なかなかいいデザイン。
「グリーンタワーだ。キレイだね。そんなに高く積めて凄い」
声をかけた私にその子はしばらく考えて言った。
「これ崩すんだよ、だって崩さないと新しいのはつくれないでしょ。
 こんどは、いろんな色で新しいのを作るよ。」
子どもは哲学者。
「崩す」ということはマイナスではない。
新しいものにチャレンジするには、前のものに(事に)しがみついていてはいけない、とわかっているのだ。
いつだって子どもの前にはまだ見ぬ予測不可能な未来が横たわっているけど、それを回避したり、恐れたりしない。
そうすることは、成長することを否定することだと、感じ取っているからだろうか。
新しい出来事にはちょっと尻込みするかもしれない。
でも、子どもたちは生まれつき、オッパイを吸い、寝返りをうち、ハイハイをする。
立ち上がり歩き出す。
なのに、保育園に行き、一年生になりしているうちに、気がついたらとうとう、そんな自分の力を丸ごと信じる力が減っていく。
大人になるまでにすっかり失ってしまう自尊の精神。

 震災復興もなかなか進まない。
住まいも仕事も、そして、なにより身内の命を失われた人たちの心中は想像するだけでも言葉を失う。
この方々と共に、新しい事のために希望が語れるのか?
さらに原発災害についてはどうか。
こんなに被害と安全不安が出ているのに、なお再稼働とか、経済が成り立たないとか、これまでの状況にしがみつこうとするのは何故か?
もう一度原発のないまっさらな状態の日本から考えて直し、作り直して行こうと思う力が大人にはないのか。

 その昔、離婚して下関に帰ってきた。
父にもらって大切にしていた本も、学生時代なけなしのお金で揃えてきた植物図鑑も、母に作ってもらった着物もみんな捨てて、あるのは両手につないだ二人の子どもだけ。
それで良かった。
仕事もなにもないけど、そこが出発点。
数年して、子どもの本屋を始めた。何もないから明日しかなかった。

 でも30年もやってくると、失いたくないものも沢山増える。
そんなとき、なんのためらいもなく、積み木を崩す子どもに出会うと、前に進む事に臆病になってしまった自分に気づかされた。

 言い忘れたが、この子は緑の塔を崩す時、決してらんぼうにガチャーンとはやらなかった。
丁寧に上から順に大切そうに箱の中に戻していた。
震災は、原発は不意に、ガチャーンとやってきた。それが切ない。


横山眞佐子











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