2014.06.

「非日常」

 再び母の事で恐縮。
数日前、庭の草取りをしようとして、転んで股関節骨折。
入院手術、リハビリという辛い日々が突然やってきた。
この年齢でのこれらのことは、もとのように回復するなんて望むべくもないけど、少しでも、快適な病院生活と意欲を失わないよう、できるだけ、慰め励まし、笑わせの日々。

 突然の入院で、もぬけの殻になった母の部屋をこの際だから、大掃除と思い、ベットを動かし布団を日光にあて、隅っこの方まで点検。
なんでこんなものがここに、というようなものもあり片付けようとしたけれど、待てよ!数ヶ月後住人が戻って来た時、慣れた場所ならすぐにカンを取り戻せる。
懐中電灯はここ。
ティッシュの箱はこちら。
湿布の袋はこの隅。
ラジオはこっち向き。
それらは皆それぞれ、寝たままでも手に取れる場所が定位置になっていた。
日常とは、そういったものだった。
少しずつ自分の居心地のいい安心できるパターン、ルールが定着して行くこと。
斬新さや、変化にとんだことは必要ないのかもしれない。
整理整頓したとたんに何が何やら分からなくなってしまったことがわたしにもあった。

 子どもたちの日常は違う。
変化こそが、彼らの今日のような気がする。
例え今この場所は学校の体育館でも、超常現象の本をみながら、こっそり後ろを振り返ってみたり、自分たちと同じ子どもが突然力持ちになったり、跳べるようになったり、秘密の言葉を唱えると体が浮いたりする本を読みながら自分もできるのではないかと練習したりすることが出来る。
想像が現実のものになることを信じられる。
今日新しい知識を知ったことは昨日の自分とは違う、と成長して行くのが子どもの日々。
みんなそんな子ども時代を過ごしながら、大人になり老いていく。
日常と非日常。
安定と変化。
年を重ねるにつれて、その割合が変わっていくのだなあと思う。

 しかしながら、日常と安定があってこそ、子供たちは非日常や変化を楽しむことが保証されるのだと思う。
子どもの虐待、所在不明の子ども、誘拐、様々なニュースを目にするたびに、この子どもたちだけではなく、このような事件を起こしている大人の子ども時代を考える。
不安定な子ども時代を送ったのだろうか。
大人社会の不安や揺れがその時の子どもにも影響を与えるに違いない。
じゅんぐりに手渡すものが、良いものであってほしい。
唐突かもじれないが、「平和憲法」を守れる大人でありたいものだ。
そして、母の日常がもどるのを楽しみに。



横山眞佐子











一つ前のページに戻る TOPに戻る