2011.10.

「樹木の声」


 10月、新学期が始まったと思ったら、国道沿いのキャンパスの木が、どれもこれも、ばっさり伐られている。
虫でもついたのかなぁ、と思ったら、落ち葉の苦情がくるからだという。
レンガ塀から上、外を覗く木の首から上をまっ平らに刎ねたようだ。

 いくらなんでもむごいなぁ、と思っていたら、今度は市民体育館と隣り合わせるフェンス沿いの木を伐るという。

 体育館側からの苦情は管理上いろいろ無理からぬものがあり、止むを得ないのだと事務局の説明がプリントされて、教員のボックスに入っていた。

 いつ木は伐り始められるんだろう・・・と思っていたら、文芸創作の学生達の卒業制作中間発表のさなかに、それは突然始められた。

 教室の中、学生たちは、自分が生きるとはどういうことか、この世界があるということの確かさがどれほど揺らいでいるのかについて、ことばを駆使して語り続ける。
窓の外では無機質なチェーンソーの音。
発表を続ける学生達は、時折、うるさいな、という表情で窓の外をみやる。
葉を広げた木々の梢がわさんわさんと揺れている姿に、ちょっと驚いたような表情をする。
しかし、すぐに、自分たちの差し迫った日常にもどる。

 あっけらかんとした秋晴れの午後で、揺れる梢のあいだからこぼれおりてくる陽ざしが机の上でちらちら踊る。

 教員メンバーの一人が立ち上がって、シャーっとカーテンをひいた。

 チェーンソーの音は聞こえても、伐られる瞬間の木の声は聴こえない。

 まぶしさは感じても、光の道筋は観えない。

 これが、2011年、私のいる場所か。



 中沢新一は、巨大津波が引き起こした原発事故が、はからずも新しい知の形態の出現を促すことになった、と言う。
「地球科学と生態学と経済学と産業工学と社会学と哲学とをひとつに結合した、新しい知の形態でも生まれないかぎり、私達がいま直面している問題に、正しい見通しをあたえることなどは、できそうにない」と。

 キャンパスから木々が伐り払われることへのレクイエムではない。

 失くしているのは、未来への思考の道筋。

 文学と無縁なはずがなかろう。


村中李衣













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