2013.12.

「胸の中に秘めるもの」


 つい先ほどのできごと。

 横断歩道で信号を待っていたら、向かい側のコンビニから背広を着たビジネスマンが飛び出して来た。
そろそろと上半身を動かさぬようにしながらの急ぎ足。
よく見ると手にカップラーメン。
そのまま会社のビルに呑み込まれていった。

「会社でお湯くらい沸かせんのんかねぇ〜」と私がつぶやいたら、隣に座っていた友人が「お湯入れて待つ3分がもったいないんじゃない? それとも、わざわざ給湯室でお湯を沸かすのが面倒なのかもね。コンビニならそこで即お湯を入れられるし」

 料理時間短縮のシンボルだったはずの3分間が、いまや、なおも縮めるべき時間になってしまっているのかぁ。

 政権交代の混乱の只中にあるタイに出かけた。
黄色いシャツと赤いシャツが街中に入り混じり、怒号もサイレンも聞こえる。
講演をするはずだった大学は封鎖。
夜には戒厳令まで出て落ち着かない時間だったが、絵本を読みに出かけた保育所のあるスラム地区の人たちは、実に落ち着いたもの。
どちらがどちらに勝とうと、結局のところ自分たちの生活が良くなるわけではない。
動員されて食事日当付きでデモに加わったりはするけれども、それに何かを託すわけではない…と。
何度も政権の交代劇が繰り返され、そのたびに失望してきた彼らの、あきらめきった表情と、痩せこけた犬たちと一緒にぼんやり通りをながめる淀んだ時間。
でも、希望もないわけではなかった。
保育所で、日本から持参した『みてみて!』(福音館書店/こどものとも年中向き 2013年6月号/410円)という写真絵本を読みあった後に、子どもたちそれぞれが「みてみて!」と言いたいものを自由に紙に描いた。
子どもたちがはにかみながら見せてくれた「みてみて!」の絵には、おじいちゃんやおばあちゃん、それに道で拾ったキラキラの石ころなんかが誇らしく描かれていた。
DSカードやアイ活のカードでないその素朴な宝物に心を動かされた。
でも、ちょっと待てよ。
貧しい地域の子ども達に対するそういうお決まりの感動は彼らの明日を生きる力に少しでも役に立つのだろうか?
むしろ、あなたたちだけはIC化の波にもまれず、ずっと貧しいながらも心清く生きていて頂戴ね、その感動をもらうことと引き換えに私はずっとボランティア活動をしてあげるんだからね、というような驕った視線が隠れてはいなかったか。
彼らがもし、捨ててあったIpodを拾って使いこなし、「宝物はIpod」と画用紙に描いて見せたら、私はがっかりしなかったか。

 彼らに等しく与えられるべき教育の道筋を見間違ってはいけない。
もちろん、カップめんに注いだお湯のスープに浸み込む3分を節約する道であってほしくはないが、変化を制された聖者の道であってもならないだろう。
どんな人たちとも堂々と交流し、しっかりした自身の考えを持って生き進むことができる道。
その道を子どもたちとともにめざし、本当に必要な支援していかなくては。

 もう見えなくなったビジネスマンの明日を思いながら、ゆっくりアクセルを踏んだ。



村中李衣













一つ前のページに戻る TOPに戻る