2017.9.

「どうぞおつかいください」


 子どもたちのための教育支援NGO「マレットファン」の応援で今年もタイへ出かけた。 去年絵本の講座を行った時に、ひときわ熱心に話を聞いてくださっていたのが少年更生施設の 協力団体の方々だった。そのご縁でナコンバトム県シリントンの施設で、絵本の読みあいワー クショップを実施することになった。約 80 人の入所青年全員を 3 グループに分けて、二日間 かけて実施した。

 ここは、犯罪を犯した 14 歳から 18 歳までの子どもたちが出所後社会復帰できることを願っ て、その資質を育てることに重きを置いた具体的なプログラムが模索されている、タイでは先 進的な更生施設だ。 読みあいによって生まれた子どもたち同士の深みのあるつながり、思いやりの根っこには、 日本ほど複雑でない彼らのシンプルな情愛があるのではないかと、思った。このことについて は、別の機会に報告したい。

 さて、ワークショップが終了したのち、私は何も考えずに、ひとつしかない女子トイレへ向 かった。先客があった。むおっとする空気の中でぼんやり中庭の赤いカンナを見ていたら、「エ クスキュゾー ミー」とたどたどしい英語で声をかけてきた青年がいた。両手は、泡だらけ。 彼は、きらきらした目で私を見つめ「こっちの方を使ってください」と、男子トイレを指さし た。

 ありがとう、でも待てるから大丈夫だよと話すと、しばらく考えて、再び「こっちへどうぞ」 と手招きした。私をトイレの中に誘うと、「自分が外でちゃんと見張っている」というしぐさ をして見せた。

 せまく簡素なトイレの中を見渡すと、隅の水道のところに、洗剤で洗う途中のカップとお皿 が重ねられていた。私を含めた訪問者たちにふるまわれたコーヒーとお菓子の片づけをしてい た最中だったのだ。彼の手の泡は、そのためだったのだ。

 私の使ったカップとお皿を、ちょろちょろとしか出ない水と貴重なせっけんで洗ってくれて いたその場所で、私はおしっこをする。彼は、洗っていたその手をとめ、自ら申し出て、おし っこをする私を守ってくれている。ワークの中で数々の温かいシーンと出会ったが、そのワー クを終えた時間の中で出会った息が詰まるほど切ない優しさに、打ちのめされた。今も打ちの めされている。

 彼らを巻き込んでいく貧困の大きな渦と社会の大きな罠に、本がどれほどの力を持ちうるの か。どんなにその力がささやかであっても、彼が裸足の足と泡だらけの手で私を守ろうとして くれたように、あきらめず繋がりの場をつくり守っていきたいと思った。

 ドアを開けて外に出た私に向かって、少年はにっこり笑ってくれた。


村中李衣















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