2019.6.

「その声にのせて」


 事情があって親子で一緒に暮らせない家族のために、お母さんやお父さんが見えないわが子を心の傍らに置いて絵本を読み、その声を録音して離れているわが子に届けるというプログラムを始めてもう10年以上になる。

 先日、Aさんというおかあさんが3歳になるわが子のことを思って「いろいろごはん」(くもん出版)の読みあいに挑戦した。たきたてのほかほかごはんに「ごはんよごはんなにになる?」と問いかけ、ごはんが、見開きごとにおにぎりになったり、のりまきになったり、おちゃづけ、ぞうすい、チャーハンといろいろに変身する。変身が完成するたびに「なったよなった」というはしゃいだフレーズがはさみこまれる。最初のうちAさんは、録音に対する緊張もあって、読むときに「噛む・噛まない」を一番に気にしておられた。そして、少し読みに慣れてくると「はっふはふ」とか「ほっこほこ」というような文中の擬音を子どものイメージがわきやすいように読みたいと、意識して言葉を発するようになっていった。上手に読むことが目標の熱心な練習が続いて、やがて、彼女はハタと読みをストップさせてしまう。これって、私の「なにになる?」という呼びかけに、子どもはいっしょうけんめい変身して見せるんですけど、最後の「なったよなった」子どもの姿を、私はちゃんと見届けてやれないんですよね...。つぶやきは、そのまま、日々のわが子の成長を傍でひとつずつ喜んでやることができない事情を抱えた彼女のもどかしさを正直に伝えていた。そこで、「じゃぁ、最後の『なったよなった』を、『なったよ。なったね』に変えてみたらどうかな?と提案した。子どもが一人で自分の達成感を口にしたシーンから、子どもの喜びの声とそれを受け止める親の掛け合いのシーンに変えてみたらどうかなと思ったのだ。提案通りに「なったよ。なったね」と声に出してみたAさんは、ぱあっと瞳を輝かせた。「あぁ、こっちのほうがいいです!これがちゃんと読めるようになりたい」。 絵本を自分に引き寄せて読むってすごいことだなぁと改めて思った。それは作者の制作時の意図から独立し、かけがえのない一回性の場をつくる。考えてみれば、創作者が作品にそそぐ言葉のいのちは、たとえ一人称の語りであってもどこか<生身感>が薄い気がする。

  不特定多数の読者のもとへ送り出すためのそれはごく自然な「適度な距離感」でもある。でも、読者の手に渡った絵本はどこまでも特別な「場」に引き寄せられ色やにおいを生み出してよいと思う。それは過剰な演出とは全く異なるものだ。

  Aさんは、どんどん大きくなっていくお子さんの成長ぶりに自分はどう寄り添いたいのか、どんな声をかけてあげられる母親になりたいのかを考え考え、本番の録音に向けて、今懸命に練習している。がんばって!

 




村中李衣


















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