6 月2日、山陽小野田市立図書館で、保育の未来を考えるシンポジウムが開催された。シンポジストの皆さんの活動の豊かさを信頼していたし、その生き方丸ごとを尊敬していたので、事前の打ち合わせらしきものはほとんどなしに、ぶっつけ本番でスタートした。私は進行役を引き受けさせていただいた。
まず、図書館内にて同時開催していた「立ちあう保育~だからこぐまにいる~」写真展の感想をお一人ずつに語ってもらった。口火を切った認定こども園小野田めぐみ幼稚園の佐野太園長が、いきなり、「世の中の園の紹介やらポスターやらで、子どもが大泣きしている姿はみたことがない。」「その点、『こぐま』の力いっぱい泣いている子どもたちとその姿をとらえシャッターを押す保育者の向き合い方がいい」ときっぱりおっしゃった。みんな、そういえばそうだなぁ、と納得。子どもの笑顔だけを保育のゴールみたいにもてはやせば、とりあえずハッピーな保育ができていると考えようとするのは大間違い。泣く力、泣きながら何かをつかんでいく力、泣きながら周りの状況を読み解いていく力などなど、泣くことの中にも自分を整えていく子どもの姿を見ようとしない大人って、本気で子どもの育ちにつきあっていく覚悟がないのかもしれない。話を聞きながら、保育職や教育職を目指す学生のレポートの中にも決まって「笑顔」ということばが登場することを思い出した。
ところで写真展の中の 1 枚に、1 歳になる直前の子が畑に座り込み大きな芋を握りしめて大泣きしている一枚があった。てっきりお芋ほりの途中で何か彼を悲しませる出来事が起こり、でもせっかく手にしたお芋だけは泣いても離さないんだなぁと感心していたら、「実は芋を怖がって泣いていたんですよ」と、「こぐま」の先生たちが懐かしそうに語ってくださった。なんと!そうだったのか。手の中のお芋が怖くて泣いている写真だったのか。こわいこわいはじめての芋との対面を、芋をひん握って過ごすちいさいひとのエネルギーに改めて圧倒された。大人には見えない子ども時間の中身の濃さを知り、見えないながらも、そこに全身で触れていこうとすることの中にこそ、保育の喜び、いや保育に限らずすべての大人の子どもに繋がる喜びがあるのではないか。
翌々日こぐま保育園を訪ねると、あっちでもこっちでも子どもたちの生き生きとした声がはじけている。もちろん、その中に羊の鳴き声も、仲間うちの取り決めに承諾しかねる義憤の涙も、そして 0 歳児の訴えの泣き声も含まれている。ハイハイしながら大声で泣いているA ちゃんが、段差のある部屋の隅まで来ると、泣きながらくるり向きを変え、泣きながら後ろづたいに降りていく姿に出くわした。おお、ここにもあそこにも、一瞬たりと大きくなっていくことをやめないいのちの姿が!
シンポジウムの中で語られたあれもこれも報告したいのに、はじまりのはじまりのご報告だけでこんな具合になっちゃった。続きの話はまた、ぼちぼちと。

『立ちあう保育』
ミズノ兎ブックス
村中李衣
