八ヶ岳の麓から戻ってきた。久しぶりの遠出だった。
夕暮れの岡山駅西口裏通り。アパートへ続く狭い道。大きなキャリーバックを、こりゃもうコロがいかれとるわいなぁと、引きずり引きずり歩いていると、うしろからどたどたと走り抜けていく4年生くらいの男の子。Tシャツの袖口から肉付きのいい腕がぶるんぶるん。
太ももも、ぶるんぶるん。おお、こんな時刻に、荷物も持たず、何でそんなに必死に走ってるんかなぁとぼんやり見送った。すると、間を開けず今度は私の横を、大柄な女性がきっちり90度に曲げた腕を前後にぐわんぐわんと振り切って走り抜けていく。まぁその豪快な走りっぷりと言ったら・・・。
前を走る男の子が、何度か後ろを振り返りながら、どたどたと走り続ける。
その後ろを、女性が抜群のアスリートポーズで、追いかける。
ついに、女性が男の子の背中を捕まえる距離まで近づいた。
あ、つかまえられる!
と思うと、女性はその勢いのまま、男の子の横を追い抜かしていった。
え?
「わはは。わははは。わははは」
女性の大きな笑い声が、暮れていく路地裏のしょぼついた空にこだまする。
男の子がいったん立ち止まり、「まってよぉ!」と言いながら、よたよたと後ろをついて走る。
「わはは。わはは」と笑い続けて走る母。「まってまって」と追いかける息子。
路地の突きあたりまでくると、ようやく母親は足をとめ、追いついた息子と横並びになった。ハァハァ肩で大きな息を吐きながら、母親が横で自分を見上げる息子の頭をひとつ、ゴツン。
それから、二人並んで、ゆっくり道を右に曲がり、私の知らない、ふたりの帰り道に消えていった。
ふと、吉野弘さんの「祝婚歌」の一節を思い出した。
―健康で風に吹かれながら生きていることのなつかしさにふと胸が熱くなるそんな日があってもいい―
理屈抜きで、人と人がむきあい、からだで対話できる。そういう瞬間に会えた気がして引きずっていたコロがほんの少し軽くなった。
吉野弘『贈るうた』 (花神社)
村中李衣(むらなかりえ)