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2023年06月

大人の言葉を拾ってみると

山陽小野田市にあるこぐま保育園の保育士さんたちが撮りためた写真と、日報・月報・保護者との連絡帳などの活字記録を照らし合わせながら、50年の歴史を辿らせてもらっている。その作業の中で、先生方の生の言葉も当然たくさん聴かせてもらっているわけだが、その言葉拾いの中で、発見したことをいくつか紹介したい。これらが、園での言葉遣いの約束やルールではないってことが、何よりすごい。多分無意識にそうなっているんだと思う。

その1.先生方の語彙の中に「させる」がない。
食べさせる。歩かせる。片づけさせる。寝させる(寝かしつける)・・・こうした使役の助動詞が先生方の会話の中に一切出てこない。
それは、園での日常が、いっしょに食べ、いっしょに歩き、いっしょに部屋をきれいにし、眠りにつくまでの時間をごく自然に見守っているからだろう。時間に日常を支配されず自然体で生きあっていれば、「させる」は必要ないのだと気づかされた。

その2.先生も子どもも羊も生きているものをみんな「なまえ」で呼びあう。
羊の名前は「さくら」や「よもぎ」だし、先生の名前は「くみちゃん」や「まきちゃん」だし、子どもたちの名前も「なおちゃん」や「けんちゃん」だから、外部の人間には、だれがだれやら、大人やら子どもやら、区別がつかないのだが、ひとりずつとちゃんと出会っていっしょにいれば、なあんにも不都合がない。いっしょに生きている仲間だから、大人、子ども、羊・・・と区別する必要がないのだ。

その3.「無事」という言葉が一度も出てこない。
なんらかの行事や計画実行の締めくくりに、普通は「なんとか皆さんのご協力のおかげで、無事に終えることができました」なんて言う挨拶言葉が出てくるものだが、どの記録の中にも「無事」は一度も出てこない。考えてみれば「無事」とは「事無きを得る」こと。こぐまには、「事はいっぱいある」のだ。そのひとつずつの「事」を面白がり、いとおしんで重ねてきた月日が先生方の中から「無事」ということばを遠ざけたのだろう。

その4.「より」という言葉が見当たらない。
子どもたちの事を語る会話の中に「より」が出てこない。「よりいっそう」と歩みを鼓舞しない。「AよりBの方が」と較べない。「より高くより早く」と直線的に成果や評価をしない。そのかわりに、子どもたちの中から生まれる「もっと」は、大きくなりたいというエネルギーの発露として存分に大事にされている。子どもたちの内側から沸き立つ生命エネルギーをちゃんとキャッチするためには、大人の側からの評価づけのまなざしを捨てることがどんなに大切なのかを思い知らされる。

どうだろうか?さまざまな教育機関の中でも、家庭でも、この4つが逆の形で多用され、大人も子どももがんじがらめになってはいないだろうか?大人の威厳を保ち子どもたちを競争させ、限られた指標で評価し、大人社会の思い通りの「よいこ」に育てる。そんなことを放り出して、生きてる者同士笑いあえる今日の日が続いていきますように。

村中李衣

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村中李衣プロフィール

1958年山口県に生まれる。
大学、大学院で心理学、児童文学を学び
就職先の大学病院で
小児病棟にいる子どもたちと出会う。
以後、絵本を読みあう関係が続く。
現在、ノートルダム清心女子大学教授、児童文学作家。

*著書*
[子どもと絵本を読みあおう](ぶどう社)
[お年寄りと絵本を読みあう](ぶどう社)
[絵本の読みあいからみえてくるもの](ぶどう社)
[こころのほつれ,なお屋さん。](クレヨンハウス)
[おねいちゃん](理論社 :野間児童文芸賞受賞:)
[うんこ日記](BL出版)

ひろば通信、こどもの広場HPで
エッセイ 『りえさんの「あそぼうやー」』連載中

毎月のエッセイは
ひろば通信に掲載されています

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