山陽小野田市にあるこぐま保育園の保育士さんたちが撮りためた写真と、日報・月報・保護者との連絡帳などの活字記録を照らし合わせながら、50年の歴史を辿らせてもらっている。その作業の中で、先生方の生の言葉も当然たくさん聴かせてもらっているわけだが、その言葉拾いの中で、発見したことをいくつか紹介したい。これらが、園での言葉遣いの約束やルールではないってことが、何よりすごい。多分無意識にそうなっているんだと思う。
その1.先生方の語彙の中に「させる」がない。
食べさせる。歩かせる。片づけさせる。寝させる(寝かしつける)・・・こうした使役の助動詞が先生方の会話の中に一切出てこない。
それは、園での日常が、いっしょに食べ、いっしょに歩き、いっしょに部屋をきれいにし、眠りにつくまでの時間をごく自然に見守っているからだろう。時間に日常を支配されず自然体で生きあっていれば、「させる」は必要ないのだと気づかされた。
その2.先生も子どもも羊も生きているものをみんな「なまえ」で呼びあう。
羊の名前は「さくら」や「よもぎ」だし、先生の名前は「くみちゃん」や「まきちゃん」だし、子どもたちの名前も「なおちゃん」や「けんちゃん」だから、外部の人間には、だれがだれやら、大人やら子どもやら、区別がつかないのだが、ひとりずつとちゃんと出会っていっしょにいれば、なあんにも不都合がない。いっしょに生きている仲間だから、大人、子ども、羊・・・と区別する必要がないのだ。
その3.「無事」という言葉が一度も出てこない。
なんらかの行事や計画実行の締めくくりに、普通は「なんとか皆さんのご協力のおかげで、無事に終えることができました」なんて言う挨拶言葉が出てくるものだが、どの記録の中にも「無事」は一度も出てこない。考えてみれば「無事」とは「事無きを得る」こと。こぐまには、「事はいっぱいある」のだ。そのひとつずつの「事」を面白がり、いとおしんで重ねてきた月日が先生方の中から「無事」ということばを遠ざけたのだろう。
その4.「より」という言葉が見当たらない。
子どもたちの事を語る会話の中に「より」が出てこない。「よりいっそう」と歩みを鼓舞しない。「AよりBの方が」と較べない。「より高くより早く」と直線的に成果や評価をしない。そのかわりに、子どもたちの中から生まれる「もっと」は、大きくなりたいというエネルギーの発露として存分に大事にされている。子どもたちの内側から沸き立つ生命エネルギーをちゃんとキャッチするためには、大人の側からの評価づけのまなざしを捨てることがどんなに大切なのかを思い知らされる。
どうだろうか?さまざまな教育機関の中でも、家庭でも、この4つが逆の形で多用され、大人も子どももがんじがらめになってはいないだろうか?大人の威厳を保ち子どもたちを競争させ、限られた指標で評価し、大人社会の思い通りの「よいこ」に育てる。そんなことを放り出して、生きてる者同士笑いあえる今日の日が続いていきますように。
村中李衣