エッセイを読む

2020年07月

スイッチ・オン

 月以来中止されていた山陽小野田市立図書館主催のわいわい講座が4か月ぶりに再開された。もうみんな「なくても進む日々」に慣れてしまって、集まってくれないんじゃないかとドキドキしながら図書館に出向いた。でも、用意されたいつもより広めの会場には、懐かしい人たちの顔・顔・顔。懐かしいってこんなにも贅沢な感情なんだ。さて、この間の様々な出来事を共有していく中で、やはりみんなが知りたいのは、三密を避けながらどうやって子どもたちと本との橋渡しをすればいいのか、ということ。今までのように教室で読み聞かせをさせてもらうことが許されない。学校での子どもたちは、勉強の遅れを取り戻すためにほとんどのお楽しみ時間を削られている。せめて給食の時間くらいは楽しくと思っても無言で食べることを強いられている。と読書ボランティアをなさっている方たちからも、学校の先生からもため息が漏れる。じゃぁせめてもの方法として、お昼休みや給食時間、校内放送で「お話を語る」ことから始めたらということになり、「絵だけでなく声を通してみる」経験を積むチャンスになるかもと、少しだけみんな前向きな気持ちになった。では、せっかくだから、今日は子ども向けということでなく集まった私たち大人が「声を通してみるお話し」を楽しみましょうと、急いで作品を探した。サポートしてくれた図書館員Kさんの「私これ大好きでしたぁ」と言う声が決め手となり星新一のショートショートの中から「ボッコちゃん」を選んだ。今から60年以上前に発表された作品だが、バーのマスターが作った美人人工無能ロボット「ボッコちゃん」と客との絶妙な会話が繰り広げられ、最後には思いがけない悲劇が。伏線が実に見事で、作品冒頭、バーの客がロボットのボッコちゃんに飲ませた酒はマスターによって回収され次の客に回されるというがめついシステムが紹介され、こえが結末に繋がっていく。実らぬボッコちゃんへの恋心が高じて若い客がボッコちゃんに飲ませた毒入りのお酒…結局その酒は誰が飲むことになったのか、もうおわかりだろう。誰もいなくなった酒場にひとりたたずむボッコちゃんの姿を思うと心が冷えていく。

 さて、わいわい講座の場でのお話。読み始めたがマスクが邪魔をして息が苦しく一人で読むのがたちまちしんどくなった。そこで、心を持たず決められた言葉しか返さない「ボッコちゃん」のセリフを、目の前におられた下関からご参加のM先生に振ってみた。M先生は下関の小学校で日々子どもたちの読書活動に尽力されている。美人は共通点だが、ボッコちゃんとは正反対のハートフルな教頭先生だ。ところが、どうだろう。ボッコちゃんの第一声を発した瞬間、M先生はスッと「ボッコちゃん」になった。演技ではない。もちろん地でもない。きっと<ものがたりの住人スイッチ>が入ったんだと思う。M先生の声を通して人間とロボットの<通じない哀しみ>が会場に広がっていく。その空気感を肌で感じながらあぁこの作品は人間の傲慢や愚かさを皮肉るためでなく、そういう人間によって創られていく世界の孤独感の方を向いていたのかもしれないと思った。実際にアメリカで人工無能が開発されたのは1966年らしいから、星新一の頭脳おそるべし。

 声は、ものがたりをそのたびに新しくしてくれる。いろんな意味でスイッチ・オン。

 注:人工無能は、人工知能のような複雑な情報処理機能を持たずテキストを用いた会話のシュミレートが主である。

村中李衣

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村中李衣プロフィール

1958年山口県に生まれる。
大学、大学院で心理学、児童文学を学び
就職先の大学病院で
小児病棟にいる子どもたちと出会う。
以後、絵本を読みあう関係が続く。
現在、ノートルダム清心女子大学教授、児童文学作家。

*著書*
[子どもと絵本を読みあおう](ぶどう社)
[お年寄りと絵本を読みあう](ぶどう社)
[絵本の読みあいからみえてくるもの](ぶどう社)
[こころのほつれ,なお屋さん。](クレヨンハウス)
[おねいちゃん](理論社 :野間児童文芸賞受賞:)
[うんこ日記](BL出版)

ひろば通信、こどもの広場HPで
エッセイ 『りえさんの「あそぼうやー」』連載中

毎月のエッセイは
ひろば通信に掲載されています

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