2月15日、バレンタインデーの余韻漂う深夜0時過ぎ、父の入所する施設から電話があった。「血糖値が40を割っている。救急車は呼んだが、すぐに来てほしい」とのこと。
すぐにといっても山の中から施設までは1時間はかかる。小屋を飛び出すと、おおっ、刺すような細い雨が降っている。不慣れな真夜中の下山。イノシシの散歩とすれ違いながら、なんとか施設にたどり着くと静まった夜の敷地に不似合いな赤ランプが点滅していた。父は既に救急車の中でぶどう糖を摂取してもらい、かなり落ち着いていた。ただ、受け入れ先の病院がなかなかみつからないという。どの病院もベッドが不足しており夜中の緊急入院を受け入れる余裕がない。救急隊の皆さんは、電話でずっと交渉を続けてくれている。時間は鈍くゆっくり過ぎていく。夜気は冷えを巻き込み、雨は既に雪へと変わる中、立ちんぼのまま、私には何ができるでもない。あまりの寒さとやることのなさに、受け入れ先が決まるまで、ちょっと車の中であったまっててもいいかしらん、でもそんなことをしてうっかり眠ってしまったりなんかしたら救急隊の人に申し訳ないな・・・などと俗人的な思いが頭をかすめ、そういう自分に呆れる。そして、明け方4時半過ぎ「とにかく診るだけは診るが入院はできないので、診察が終わったら家族がいったん連れて戻ること。具合が悪くなれば再度昼間に受診」という条件のもと、ようやく病院が一つ見つかった。でも、え?ちょっと待って。連れて帰る?この状況の中、私の運転で?もしそのあいだにまた急変したら?ひとりで宇宙に放り出されたような不安が押し寄せる。救急車はone-way。引き返しはないんだ。
そんなことを頭の中でグダグダ考えているうち、「いいですか、私たちはこのまま一気に進みますが、後ろをついてこられるあなたは、必ず法定規則を遵守して走行してください」ときっぱり言い置き救急車は出発した。ごくろうさまです。ありがとうございます。お世話になります。でもでもそれじゃ私ついていけないですう。真っ暗闇でカーナビもあてにならないはじめての道を、何が何だかわからないままに走る。父はサイレンの音と共にぐんぐん遠ざかりやがて点になり消えていく。赤信号で停止している時間、取り残された感覚で自分が宙づりになる。何に取り残されているんだろう、とぼんやり思う。
小さい頃から父とうまくかかわることができずに来た。甘えた記憶も一緒に何かをした思い出もほとんどない。母の存在が唯一私と父を繋いでいたのだが、その結びの糸が無くなってから、「一人娘として年老いた父の世話をするのは当然」という常識の範囲に収まるべく動いているだけだ。どう気持ちを切り替えようとしてもできない錆びついた確執の鎖がある。当たらず触らずの介護の結果がこれかぁ・・・。その時、トンネルをくぐりこっちに向かってくる小さな赤い光がひとつ見えた。次第に光はくっきりとしてきて、エンジンの音も聞こえてきて、あぁ、それはスクーターに乗ったおじいさんの新聞配達の姿だった。
今日の朝刊を荷台に積み上げたおじいさんは、ハンドルを固く握り、しゃんと前を向いて朝を運んでいる。私はまっさらな今日とすれ違ったのだ。
有難いことに、その後父は回復し、何事もなかったように日常を取り戻している。が、この日のことを、朝とすれ違った瞬間のことを、私はこの先決して忘れることはないだろう。
村中李衣