「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」
古今和歌集、在原業平が詠んだ歌ですが、前任校で退職なさる先生が、この一首の心持です、とおっしゃったことがずっと記憶に残っていた。やわらかな物腰と学問探求一筋に歩まれた誠実さを尊敬申し上げていただけに、あぁ、退職は先生にとっていのちの終焉を迎えるような感慨があるものなのだなとその時しみじみ思い知ったのである。
ところが、だ。自分に訪れたその「今日」は、どこかふわふわしていて実態がない。(え?マジですか?)というような感じだ。去り行くための片付けも引っ越し代を安く上げようと早くから取り掛かったのに、(あら、まだ必要な資料を詰めちゃった。どの箱に入れた?)とか、(おまえ、わざと隠れてただろう!)と責めたくなるほどあっちこっちからボールペンやらクリップやらが、ひょこり顔を出す。捨てられない性格でそのたび、段ボールの隙間からパラパラと忍び込ませる。お手紙のお礼状を書こうとしたらありゃ、引き出しの奥に季節外れのサンタクロースとトナカイの便せんしか残っておらず慌てて買いに行く・・・。部屋を訪れた事務職の女性が、「う~ん、最後の一押しができてませんねぇ」。そうしてやってきた「今日」なのである。自分を押す「最後の一手」、これってすごく大事な気がする。生まれてくるときもいのちの終焉を迎えるときも、押されてでなく、見えない一手を自ら押してるんじゃないか。外から決められた枠の中で泳ぐのはここまでという教員最後の日をもっと大事にすべきであったなぁ。
ところで、別れになぜ人は花を贈るのか。荷物が山のようにあり、どう考えても新幹線を乗り継ぎ帰路に就く人間には持ち帰り不可能なのは歴然としているのに。送別会に向け勇気を出して「いっそのことフラワーカードにしてくれない?地元で花束に代え、飾らせてもらっている様子を写真で送らせてもらうのはダメかしら?」と提案してみた。でも「一応これは儀式ですから」とプレゼンターはひるまなかった。やれやれと思っていたが、いざ送別会の席上で大好きだった先生が気持ち抱えるようにギュウッと花束握ってこちらに向かってくる姿を見たとき、「あぁ、この瞬間のために今この花たちは咲いてくれている」と思った。花束だけでない、すべてのものは、今その瞬間に光を放つんだな、と。意味があるとかないとかは時間軸の中でだけ測られる訳でもないんだな。ところが、その花束を有難く抱いて帰ろうとしたら「ここにご希望だったフラワーカードを用意しましたからその花束と交換を」とニッコリ言われた。返す言葉も、差し出された両手に花束を戻す元気もなし。そういう「今日」でありました。
村中李衣