叔母の話をしようと思う。父親と二つ違いの妹で、私が小さいときからよく父に電話をかけてきては話しているうちに決まって言い合いになり、最後はガッチャン。電話が壊れるんじゃないかとハラハラしたものだ。「全くこの妹だけは気が強くて負けず嫌いでどうにもならん」。そういった後で父は必ず「まぁ、あいつはまだ小学校に入る前に母親と死に別れたし、新しい母親ともその後生まれた妹弟たちとも折れ合いが悪くてひとりぼっちみたいなところがあったからな。中学に入学したときは、新しい制服を新調してほしいと言い出せなくて、自分で小学校の時の制服の袖丈と裾丈を伸ばして着て行ったぐらいだからなぁ。どうしたって気丈にはなるわなぁ」と叔母を庇ってみせた。一人息子は、東京に就職したのち、父母共に施設入所となってからも、めったに顔を見せない。当たり前と言えば当たり前だが、そんな薄情息子の事を「あいつ許せん!」と私が憤ると「まぁ、あの子もいろいろ事情があるんじゃろう。私は一人でも全然へっちゃらよ」と強がってみせる。
先日そんな叔母の見舞いに行き『ちいさなはくさい』(小峰書店)を日差し明るいベッドのそばで読みあった。作者の工藤直子さんも保手浜孝さんも山口県にはなじみが深い。畑の端っこに飛んだ種から芽を出した小さな白菜は、仲間たちが次々とトラックに載せられ八百屋に売られていくのにその小ささのためにひとりだけ畑に取り残される。「いいなぁ」と羨む白菜をそっと傍で見守る柿の木は「お前は春になったらぐんぐんのびて、やがて金色の冠のような花を咲かせ、そこにはチョウチョたちもやってくるだろう」と話して聞かせる。やがてその通り、小さな白菜に誰より嬉しい春がやってくるというおはなし。
私の語りを聴きながら美しい画面をじっと見つめる叔母。こうやって横に並んでみると施設に入ってからまた一回り小さくなった気がする・・・。
濃紺の空から降りしきる雪。鉢巻を巻いてもらった頭にこんもりその雪をかぶせひとりぽつんとそこにいる白菜の姿。画面を開いたままつい、「おばちゃんも、よくがんばってきたねぇ」と言ってしまった。すると、叔母は顔を上げ、しばらくの沈黙の後「別にどうってことはなかったけどねえ、でも一つだけ忘れられんことがあるんよ」と口を開いた。「小学校1年生の時に、こんな風に昼から雪が降り出してね、友だちはみんな親が傘と長靴をもって迎えに来たのに私はね、誰にも来てもらえん。仕方ないから雪の中を走って家に帰ったら、義母がお湯を沸かして盥の中で私の足を温めてくれてね、それから『寒かったじゃろう』って言いながらこうやって私の手を・・・」。言いながらカサカサの両手を顔の前にもってきて息を吹きかけるしぐさをした。涙がぽろぽろ膝の上に落ちる。私はその叔母の両手を私の手で包んだ。強張った叔母の人生の塊がぜんぶぜんぶ溶けてなくなりますようにと。「叔母ちゃん、そのあと、この小さな白菜みたいな幸せな日はやってきた?」と聞くと、「やっぱりおじさんと出逢えたことじゃねえ」と言いながら涙の痕をつけた顔でふふふっと笑ってみせた。おおっ、息子より先にまず夫かぁ。なんだかちょっと救われた気がした。
この絵本が真ん中にいてくれなかったら叔母の物語の箱は、閉じられたままだっただろう。忘れられない読みあいになった。
村中李衣