キリスト教の教えに基づく園や学校にとって、クリスマスの降誕劇は一年間の総仕上げのような大きな行事です。劇を演じる者だけでなく、陰で彼らを支える裏方の努力も、大変なものがあります。衣装づくり、照明のアレンジ、賛美歌の稽古・・・そんな中で、今年は地元の幼稚園での「だれがどの役を演じるの?」問題に立ちあわせてもらいました。年長さんからは、これまで、毎年お兄さんお姉さんたちの晴れの舞台を見てきて「いよいよ今年は自分たちの番だ」という誇り高い気持ちが伝わってきます。一番人気の役は男の子は「学者」女の子は「マリア」と天使「ガブリエル」のようです。理由は「かっこいいから」「かわいいから」が圧倒的。一方で、園長先生も職員さんも、カタチとして降誕劇をやるのでなく、神様と共に在ることのしあわせを、ちいさい人の魂にも届けたいと願っておられることが伝わってきます。それだけに、この役じゃないといやだとか、なんでこの役なの・・・というような言葉が飛び交う現実に悩んでおられます。そこで、年長さん一人一人が引き受けた役を自分の新しい名前にして、ひとりずつ詩を創ってみることにしました。たとえば、わたしが羊飼いなら、「羊飼いりえ」の詩、私が兵士の役なら、「兵士りえ」の詩、です。
驚くことに、その名前を引き受けた瞬間から子どもたちはその名前を真剣に生き始めます。たとえば、羊飼い役の子どもは、自分の世話する羊の数に迷い、天使役の子は空から長い間ひとりで眺めていた地上の雨について語り始めます。兵士は王に殺せと命じられていた赤ちゃんを見逃す代わりに得た真珠を、一度自分の手で抱えることでその重さが命の重さだと気づきます・・・
言葉で表すことが難しかった子も、想像することで自分のクリスマスを少しずつ描いていくうちに、ものがたりが動き始めます。その見事さにあんぐり。ともすれば悪い人の代表のように扱われるヘロデ王役を引き受けた子は「みんながイエス様の方を大事にしてヘロデ大王のそばにいなくなったら、病気になって倒れても病院にお見舞いに来てくれる人が10人くらいしかいなくなる。それってさびしくてたまらんし、みんなに話を聴いてもらえない。いっしょうけんめいセイジをしようと思っても、できない」と語ってくれました。自分の語る言葉の中で精一杯のヘロデの弱さを受けとめていることがわかりました。セイジという言葉も彼の中から生まれたものです。
もちろん、最初からひとりずつがこんなにすばらしい役の理解をしていたのではないと思います。そんなの無理だし、理解できていたら、問題なんて起きっこないですもんね。
必要なのは、理解でなく、生きてみる体験です。詩というイメージの世界で本気で生きてみる体験。それが、幼い人たちには何より大事だったのかもしれないと思いました。
日々現実を生きている、それはあたりまえのことのようです。でも「息している」けど、「自分を生きてはいない」こともしばしばなのではないかしら。親の期待を生きる。先生の号令に生きる。どうだったら、喜ばれるか。どうすれば、ほめてもらえるか。
でも、あなたがあなたのままに生きる。選ばずねたまず較べることもなく、ただ授かったそのいのちを喜びあって生きる。それが、かみさまにとって、一番喜ばれることでもあるんだよと、降誕前夜の一コマずつが教えてくれているようです。
村中李衣
