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2017年05月

ある

 友人の小野田市立図書館長が新聞のインタビューで「なにげない情報も100年後には史料になる。未来を見据えた『100年プロジェクト』です」と地元の様々なペーパー、資料を図書館が収集することの大切さを語っている。「物」が目の前からなくなるとそれに連なる記憶も失われてしまいがちだ。先日、クロワッサンという雑誌の対談で「こどもの広場」を作った時のことを話してほしいし、資料があれば持って来てほしいと言われ、捨てるのも整理もどちらも下手な私は、あちこち探し回り、ようやくこの「ひろば通信」の始まりの頃のものを発見!昔はわら半紙と言っていた茶色い紙に謄写版で印刷した全て手作りの物。几帳面に書いた文字、コピーなどないので絵は全て手描き。変色しかかった通信の中に書かれているはこの一ヶ月にあったこと、これからやりたいこと、新しいワクワクした本のこと、今と同じようだけど微妙に違う。読んだ途端に忘れていた当時の小さなことが蘇る。たった一枚の紙切れがあっただけで、困難なことがあればあるほど友達が増えていった日々が思い出される。今となってはこの一枚しか残っていないけど。過去から繋がる現在であることを改めて心することになった。

 数少ない親族が墓じまいをするという。二世代に渡って納骨された山中の墓を無くし、遺骨はゆかりのお寺に永代供養してもらう。遠く離れてくらしている子どもたちには一番安心の方法だと思う。合理的とか現代的とか言われるかも知れない。けれど、大切な人を亡くした時の喪失感と悲しみが時間の経過と共に自分の中の記憶という場所に落ち着いた時、その人は触れる形ではなく、思い出すことで大きな存在となるような気がする。年に何回かのお墓まいりも大切かもしれないけれど、折に触れ、笑い声を思い出し、好きだった本を手にし、同じ視点で何かを見ている自分の中で生き生きしている死者もいいのではないか。墓があるから思い出すことと、無いからこそより自分の中で鮮明になる記憶。

 100年後、関係者がみないなくなり、記憶されなくなった時、ひょっとしてこの通信がどこかの図書館から出て来て「ふーん墓じまいか。その頃はまだ個人のお墓ってものがあったんだな!」と史料としての役に立ち、やはり身近な人の死について思い巡らすかもしれない。「ある」と「ない」どちらも捨てがたい。

横山眞佐子

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