エッセイを読む

2017年02月

まぶしい

 母が、夕飯の支度をしている私に「なんか手伝おうか?」と声をかけてくれる。熱いものや割れるものはチョット危ないので「お箸を並べてくれる?」と頼んで戻ってみると、箸立てから出した全てのお箸が綺麗に2本ずつズラリと並べてある。二人しかいないのに「なんで全部出すのよ!」、と言いかけてハッと気づく。母の目が「どう?きれいでしょう?並べたよ」と得意そう。

 状況を判断して、言葉の意図する意味を読み取り、二人でご飯だから私とあなたのお箸ね、とはならなくなっているのだ。それよりも箸立ての様々な箸の中から同じものを見つけて、きちんと並べるということの方が心に適っていたのだ。確かに一組ずつ並べられた箸は雑多に入れられているときとは違う存在感がある。

 私たちは子どもにも、いろんな場面で「なんでそんなことするの!?」と詰問することがある。水たまりの泥水をジッと見つめていた息子が、突然両手を中に入れてばしゃばしゃと撥ねとばす。「なんでそんなことするの!」怒って私が怒鳴る。水に映る動く白い雲を取ろうとしたのだと後になってわかる。庭のサルスベリの木に毛布を引きずって登ろうとしている子ども。お父さんが怒鳴る。「何しているんだ!毛布が破れるだろ!」これは私。小さいときハンモックってものを作ろうとしたんだけど。

 大人になってしまい、常識とか理性とか経験とかそんなものが備わると自分の今考えていることが一番で、その他の方向から何かおきるとつい「なんで?そんなこと!」と否定的な気持ちがわいてしまうのかな。でも、子育て中、不可解な子どもの行動や言動にも、じつはその年齢のその子なりの理由があるのかも、と考えることはかって子どもだった大人には出来てもいいはずだが。だって、かって自分も体験したり感じたりしたことなので想像できる。

 しかし、母の中にあった大人としての常識がどんどん風化していき、子どものように「へ??これはなんだろう?あ、おんなじだ。並べたらキレイ!」と感覚的になっていっているのを、私は経験したことがないのでうまく想像出来なくて戸惑う。

 生後二ヶ月という孫の小さな赤ちゃんを連れて常連さんのおばあちゃんが来てくれた。手に触れれば小さな手で指を握ってくれる。顔を近ずけて話しかけると目と口をジッと見つめて今にも話しをしそうに口を動かす。これから刻一刻、未来に向かって、観察し感じ育っていくのだ。どんなに小さくても存在感がズッシリ重い。

 なんにもしてあげてないのに「ありがとう」と笑う母は、未来などどこ吹く風の、軽々とした存在感。ここに在るだけで尊いというまどみちおさんの詩がまぶしい。

横山眞佐子

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