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2018年09月

寄り添う

 子どもの頃から犬のいない生活はなかった。アメリカからの宣教師の連れてきた犬の生んだ子どもは噛み癖のあるどう猛な犬で、母を除く家族全員がひどく噛まれた。それでも犬が嫌いにならなかった。子犬のまま死んだ犬。小さな体で三匹の子犬を産み、子育てした犬。数メートルにもなる崖の上の塀の細い瓦の上を猫のように歩く犬。可愛がっていた息子が遠くから帰ってくるのを待って腕の中で死んだ犬。そして今は動物愛護センターで明日殺処分されるのを知っているかのように大声で鳴いていた犬が我が家に居る。

 可愛がっていたビーグル犬が死んだ後、母が犬がいないと寂しいと言い出して、何気なく行ったセンターで出会った。譲渡され車のドアを開けた途端に鳴き止み、その日から高齢の母にピッタリ寄り添い「この人は、私が守る!」と言わんばかりになった。母のベットの足元に眠り、椅子の横に寄り添い、困ったことにヘルパーさんが入浴の手助けに来ると、母がちょっとでも嫌がる風を見せると間に割って入り、ガンを飛ばす日々だった。認知症が少しずつ進んでも、犬の名前「ぜぜ」だけは忘れなかった母も老健施設に入所することになり、別れることになって一年。自分の名前も、毎日訪問する妹の名前も自分の名前も、ましてや滅多に行かない私の名前は母の体の中で浮遊して浮かんでは沈み、時々ふっと口から飛び出すような感じ。言葉が意味を持たなくなっていく。でもある日急に「ぜぜはどこ?」と探すような目で遠くを見た。「ぜぜに会いたい?」と聞いた時にはもう母の中から犬の姿は消えていたかもしれないけれど、大切で幸せな記憶が一瞬蘇ったのだろうか。

 母に命を救われ、この人の側に居ると決めた犬、ぜぜの方は未だ何か寂しげに見える。私が撫でても遊んでも、母に自分から寄り添ったようには接してくれない。我が家に来るまでの間どんな事があったのか。可愛がられていたのに迷子になったのか、捨てられて怯えながら生きて来たのか?ペットブームで高額の子犬を「買って」くる時代。幸せに家族の一員になれる犬がいる一方で、そうでない犬もいる。痛みや苦しみの感覚の記憶は人も生き物も同じかもしれない。それを忘れ、乗り越えて幸せに生きる。言うほど簡単ではない。

横山眞佐子

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