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2019年04月

じぶんの手がふっくらすべすべではなくカサカサ、ゴツゴツになってきたのに気がついたのはいつごろだろうか。なんとなく手に塗るクリームの宣伝が目に入るようになってきた。

高校生の頃は「えくぼの出来るぽちゃぽちゃの手」と友人に褒められた記憶があるのだけれど本当だったのだろうか?あれから半世紀以上。毎日毎日使わない日はない。手は何かを始める時の第一歩を務める。触る。つまむ。握る。振る。

赤ちゃんが来た。こどもの広場をヨチヨチと歩きながらもお母さんのスカートをぎゅっと握っている。転ばないための支えだけではない。安心の通路みたいなもの。私がしゃがんで声をかけてもニコリともせずマジマジと顔を見るだけ。良い人か悪い人か見透かされている?そのうち目が、フッと和らぎニコッと笑う。ホッとして「いらっしゃい」といいながら手を出すと握ってくれた。思いがけない力強さ。あ、お母さんのスカートを離している!小さな手がこの場所、この人を受け入れて新しい一歩を示している。でも、ふと見ると握られている私のゴツゴツの手と赤ちゃんの瑞々しい手となんと違うことか。ガイコツに皮が被っているみたいだと可笑しく思い、気がつけばそれは母の手にそっくりではないか。針に糸を通し私の洋服を縫ってくれた。子どものために小さな毛抜きで魚の中骨をとってくれた。お茶の真似事をし、庭の草むしりをし、掃除をし、ご飯を作る。90歳をすぎるまで箸を上手に使って食事をしていた。でもある日箸が掴めなくなり、あんなに器用だった手がいつも胸の前でぐんにゃりとまがったままになってしまった。でもその手は私の手にそっくり。生まれてから今日まで、その時その時で必要なことをしてきた手。

通信に毎月詩の投稿をしてくださる藤本幸枝さん。生まれた時から身体が不自由だけれど、自分の身体のありとあらゆるところを使って生きて来られたと思う。パソコンを使って一文字一文字を微かに動く指で打ち、心の内を言葉に紡ぐ。並大抵の事ではないと思う。一文字をポツンと打つのがどんなに大変なことか。そう考えると、ヒトの身体のパーツはどんな場所も、補いあいながら生きる為に片時も休まないで働いてくれているのだ。

ペットボトルの蓋が開かず、ああやったりこうやったりしている私の側にいた見知らぬ若者が「貸してください」と簡単に開けてくれた。そのうち、器用を自認していた私だけど、手から物が溢れ、持ったつもりが落とし、出来ると思った事が出来なくなる。母のようにニッコリ笑って「ありがとう」と言えるようになっておこう!

横山眞佐子

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