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2022年11月

限り

 「命は限りがあるけど、掃除は限りがないね!」
 日曜日歩いていたら、子どもとお父さんが箒とちりとりで落ち葉のお掃除をしていました。まだ小さな少年です。今掃いたところを振り返るとまた葉っぱが落ちている。「これ、カメムシ?死んでも臭いかなあ」と、またその子の声が。人間だけではない命に気づいているのですね。どんなに幼くても「何もなくなる」という「死」へのおびえがあるのかもしれません。だからこそ今日を夢中で生きる。哲学だなあ〜!!

 何気ない日常、朝起きて顔を洗ってご飯を食べて、学校に行って、勉強して遊んで、帰って・・。毎日同じようですが、実は今日の経験が明日の自分を変えていくという成長の一途を辿っているのです。
さて、先日から「こどもの広場」のお向かいの家が取り壊されています。この場所に移ったのはもう33年余り前。その頃はこのあたりに住んでおられた方々も皆さん現役でお仕事をしておられたはずです。しかし気がつけばあちこち空き家になり、この家も庭には草が生え放題で寂しそうでした。そしてある日工事が始まりました。見慣れた風景が変わっていきます。在った物が無くなっているのですが、目をやるたびに「あれ?」っと、元の家が脳裏に蘇るのです。

 そろそろ不要な物を整理しなくてはならない年齢になってきました。世間では「終活」とか「断捨離」とか言われていますがわたしの一番の苦手。何でも一応取っておきたい。いつか必要になるかもしれないじゃん!いやいやまだ使えるし勿体ない。でも数年前に考えたのです。もし毎日一つ何かを家に増やすと、一年で365個。たとえ紙切れ一枚でも10年で3650個。捨てられないわたしだから何も増やさないようにしよう、と。放っておくとすぐにグチャグチャに。だからそれらを毎日整えて掃除をする。掃除には終わりがないのです。父の残した捨てられない沢山の本の埃をはらっていて、目に止まった一冊。寺田寅彦の「柿の種」という箱入りのエッセイ0。昭和8年の発行。「棄てた一粒の柿の種生えるも生えぬも甘いもしぶいも畑の土のよしあし」と書いてあります。

「限りのある命」の中で「本」という形に自らの言葉を託したたくさんの先人達。開けばわたしの傍に居て、「自分で自分を耕せよ」と同伴してくれる。

 少年よ、掃除も命も終わりがないかもしれないね。

横山眞佐子

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