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2023年06月

捨てない

飼い犬に促されて、渋々散歩に出かけます。生まれた時から住んでいる家も周りの風景もあまり変わっていないような気がしますが、ふと気がつくと小学校時代仲が良かった友達の家は緑のツタに覆われて今にも崩れそうに。玄関の前に立つと引き戸の手触りまで思い出しますが、ガラスは割れ中の床も落ちています。誰も住んでいない家は死んだように無口になっています。傍には沢山の電線をつけて立っているコンクリートでできた電柱が立っています。60年前には大事な一本の電線を引っ張って電柱は真っ直ぐに堂々と立っていましたが、今ではもう不要のものでしかありません。私の周りも、着なくなった洋服、昔のメモ、いつか使うと思って取っておいた茶色になったノート。見回せばもう私にとって大事ではなくなってしまった「物」であふれています。

いつも使っている40年ものの腕時計はまるで私の一部のように、今日も遅刻しないようにわたしを見守ってくれています。でも父の引き出しの中でこの数年誰も使ってくれなかった時計は存在感を失いただの物になっています。

「物と私」。私がそれを必要として使ったり身につけたりしているうちは「物」も生きているように見えますが、ひとたび使う頻度が減るとみるみる朽ちていくのです。

かつて、一着の洋服も小さくなれば穴を繕って妹が着たりほどいて縫い直したり、最後は雑巾に。ティッシュペーパーなどなく、鼻が出れば茶色のちり紙かハンカチで拭う。鉛筆は小さくなってもキャップをはめて最後まで使う。「物」は一つ一つ大切で最後まで使い切るのが当たり前でした。

子ども達が大好きな怖い話系の中によく登場するのが「もののけ」で、漢字で書くと「物の怪」。

モノは人間の対義語と言われていることもあります。生きている人間と命のないモノとして超自然的な存在とも言われているようです。生きている人間にいいように使われ、不要になったらポイされてきた「物」たちが怪異の世界で蘇る!

やっぱりこのノート、鉛筆、洋服、靴、捨てられないなあ。しかし・・・悩みはつきません。

横山眞佐子

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