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2018年06月

子どもの権利

 先日あるスーパーの入り口でちいさな姉弟と一緒に若いおかあさんを見かけた。お母さんはしゃがんでスマホをいじっていた。4歳くらいの女の子はそばで小さな袋を振り回しながらクルクル回っていた。2歳くらいの弟はぼーっと突っ立って夕空を見ていた。そばを通りかかった途端、お母さんが顔をあげ「テメー、何やってんだ!あぶねーだろーが!静かにしないとぶっ殺すぞ!」。長い髪の綺麗なお母さんの口から出たとは思えない言葉に私は立ちすくんだ。とたんに凍りついたような姉弟の表情。お母さんはまたスマホに目を落とした。ドアの中に入ってから、虐待という言葉が渦巻き振り返ると、白い車にみんな乗り込むところだった。何事もなければいいけれど。

 新聞、テレビで繰り返される目黒での5歳の少女の虐待死報道。「しつけ」と称し子どもにはなにをしてもいいと考える大人がいるということだ。子どもの虐待は増えているという。しかし当事者の子どもが声を上げることは滅多にない。大人に敵う子どもはいない。ましてや母親、父親であればなおさら。子どもたちはお前が悪いと言われたら、その通り、自分が悪いと思ってしまいなんとか良い子になろうと一生懸命になる。目黒での少女もそうだった。

 「長くつしたのピッピ」を書いた有名なスエーデンの作家、アストリッド・リンドグレーンは1979年にドイツ書店協会平和賞を受賞し、その時のスピーチは「暴力は絶対ダメ!」というメッセージだった。中でも子どもへの大人の対応について「生まれたての子どもには、善良に育つのか、あるいは邪悪にそだつのか、ひとりでに芽生える種子はありません」と言う。こどもが連帯意識を持つ力を備え、人を信頼できる温かい心を持てるか、あるいは冷酷で破壊的な一匹狼になるかは、その子どもを受け入れる人たちが、愛情はどんなものか教えれらるかにかかっている、、と。考えてみれば、今大人である私たちも子ども時代があり、その頃の親や大人の振る舞いの中で育ってきた。ひどい言葉で子どもを罵っているお母さんにも子ども時代があった。そう考えると繰り返される負の連鎖を断ち切るには、閉鎖的な家庭という中での子育てだけに頼るのではなく、社会全体が言葉や行為による暴力を見過ごさないということになるのではないか。

 「子どもは、大人が理由を説明もせずに、自分を支配するのを決して認める必要はありません」国連の「こどもの権利条約」です。ふれーふれー、子どもたち!そして目を開かなくてはいけない大人たち。

横山眞佐子

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