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2019年02月

寄りかかる

 心臓のエコーをとることになり病院に。検査の部屋に入るとなんだか緊張する。横になら胸にヌルヌルつけ、機械でグニュグニュするのに、技師の女性が「寄りかかってください」と言いながら、自分の身体で不安定な私の身体を支えてくれる。

 脱力した自分を不安なく任せる。考えてみたら人はいつのまにか一人で立ち、考え、いろんなことが出来るようになっている。自立という言葉は自分が一人でも立っていられるという大切な言葉で、いつかはみんなそうなる事が期待されている。

 でも今日、気持ちも身体も不安定な私が当たり前のように「寄りかかってください」と言われた時、暖かい人の気配を感じてホッとした。全て任せるなんて、大人になればなかなか出来るわけではなく、この瞬間だけ身を委ねさせてもらうって感じかな。

 なんて考えていたら、自分で出来ると思っていたことが、次第に出来なくなって来た時の母のことを思い出した。パジャマに着替えないまま布団に入ろうとしたり、朝着替えを出していても「着替える」という意味がすぐにピンとこなくてぼんやりして、その服をタンスにしまっていたりする時期があった。無理に着替えさせようとしたら怒る。今になってみたら当たり前だよね。と思う。人は生まれてから毎日毎日自分でできることを増やしてきた。今日できなくても明日。失敗したり、頑張ったりして。大人になることは並大抵ではない。「大人」でいられるのはどのくらいの時間だろうか?

 ある日、母のパジャマのボタンを止めてあげようとした時「ありがとう。下手になったんよ」と言われた。少しずつ出来ないことが増えていく時、戸惑い辛く思っているのは本人なのだ。「ゴメン」

 自立して自分の事だけでなく家族や周りの事を手助けしていくことが人としての成長かもしれないけれど、いつかその事も手放し、誰かが助けてくれることに身を任せる。登り坂の成長から成熟という旨味に変わるのかもしれない。

 みんなに寄りかかりながら生きている母は、相変わらず「ありがとう」とにっこり。「済みましたよ。オシボリで拭いてくださいね」数分間の私の寄りかかりは終わり!そそくさと身なりを整えて立ち上がる。帰りに寄った蕎麦屋さんで家族連れのブースから「じぶんでー!じぶんでー!」と子どもの抗議の声が聞こえてきた。「熱いから無理だってば!」という必死のお父さんの静止。多分熱いどんぶりから一人で食べようとしているんだな。ふふふって笑いながらざる蕎麦を食べた。

横山眞佐子

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